科学的知識がなぜ伝わらないか

小学校の5年生の算数に「台形の面積算出の公式」が復活するとのこと。先日テレビを見ていたら何人かに「知っていますか」的なインタビューを行っていた。知っている人は、答えた後に「自慢げ」であり、忘れた人は「長い人生で、台形の面積を出す必要に一度も遭遇しなかった。あんなものを教えるのは不必要だ。」と言い訳をしていた。

もちろん何十年も前に学校でならった「台形の面積算出の公式」を忘れてしまうことはよくある。しかし義務教育で習ったことを忘れてしまったことを恥としないばかりか、逆に科学知識を知らないほうが格好良いと主張している人が日本では多くいるように感じる。「理系の知識の難しいことなど何も知らない。しかし、俺はものごとを正しく判断できる」と彼らはうそぶく。このような主張は欧米では見られないそうだ。自然科学の雑誌、例えば、サイエンティフィック・アメリカンなどが、一流企業の社長室などに置かれていて、知性の一部としての自然科学があるという受け取り方が一般的である。

ところが今の日本では、マイナスイオンが体に良いと思える、そんな感性をもっている「わたし」がカッコウが良くて、そんなものが利くわけが無いという科学的な理屈をこねる人間は、格好が悪い。また「霊」なるものが流行ったとき、若い女性タレントが、わたしは霊感が強いから、といって自慢していた。しかし、これは自分は科学的なものの見方をしない、と言っていることと同義である。人間はもっともっと超能力をもっていて、科学などで解明されてたまるか、という考え方が大衆向けのマスコミを中心に我々に流されている。

欧米と日本の科学に対する考え方の差はなぜあるのか。となるとそれは歴史のせいといえるだろう。日本にはニュートンのような科学者が生まれなかった。科学者だと言える人がもしいたとしても、すべて外国からの輸入知識だった。しかも、明治以来の富国強兵策の一つとして技術というものを認識する歴史があったものだから、それ自身が高尚なものではなくて、実用になるから、科学・技術は役に立つという認識だったのではないだろうか。

たしかに、生命現象そのものや生物の能力には、現代科学でも決して実現できないものが多いのは事実である。しかしだからといって、科学を知ることがカッコウが悪いことにはならない。
それどころか、科学的な理解ができないと、正しい判断ができない状況が余りにも多い。生命倫理しかり、遺伝子組み換え、資源・エネルギー枯渇、化学物質リスク管理などなどだ。科学的な知識があると、物理的なリスクの判断がやり易いという実用面でのメリットは容易に想像できるであろう。しかし、実用面でのメリットを強調するだけでは片手落ちで、普通に暮らしている人々に科学的知識は伝わらない。普通に暮らしている人々に科学的知識は伝えるためには「科学を知っていることがカッコウの良いことだという意識が広まること」が必要である。意識が広まることによって、普通に生活している人は「科学的に考えることはカッコウ悪い」の呪縛から解き放たれ、科学知識に基づき自立的に考えるきっかけを与えるはずである。
文系だからといって、「科学は分からない」ということを世間に自慢できる状況にはない。

この文章は「科学的知識がなぜ伝わらないか」を参考に書きました。
http://www.yasuienv.net/ScienceKnowledge.htm

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